西澤敬二さんは、2022年に損害保険ジャパン株式会社取締役会長に就任されました。
西澤敬二さんは現場力を伸ばすことに注力し、自ら積極的に現場を見て回ったりと経営においてエキスパートと言っていいでしょう。
そんな西澤敬二会長は、一体どのような学歴や経歴の持ち主なのでしょうか?
また、西澤敬二さんを支えてきた家族とは一体どのような方たちなのかも気になりますよね。
そこで今回のこの記事では
・西澤敬二(損保ジャパン会長)のWikiプロフィール
・西澤敬二会長の高校や大学の学歴は?
・西澤敬二会長の経歴を時系列にご紹介
・西澤敬二会長の両親や祖父母などの家族構成について
これらのことに注目して、まとめていきたいと思います。
西澤敬二さんが気になっている方はもちろん、企業のトップにいる経営者とはどんな方なのか知りたい方もぜひ最後までお読みください。
西澤敬二(損保ジャパン会長)Wikiプロフィール
名前:西澤敬二(にしざわ けいじ)
生年月日:1958年2月
年齢:65歳(2023年時点)
出身地:東京都足立区
現職:損害保険ジャパン、日本興亜損保の統括責任者(取締役会長)
西澤敬二さんは、1958年2月生まれの東京都足立区出身です。
日にちは非公開でしたが、2月が誕生日なので今年で65歳ですね。
会社のトップとして走り続けている方だけあり、お顔を拝見してもツヤがあって若々しいと感じます。
これも仕事に一生懸命取り組んできた活力のおかげなのかもしれません。
とても上品な方だよね。
髪型や身なりも綺麗だし、若く見える気がするね。
西澤敬二会長の学歴
西澤敬二会長の最終学歴は慶應義塾大学経済学部卒業です。
【1976年/18歳】
慶應義塾高等学校卒業
【1980年/22歳】
慶應義塾大学経済学部卒業
西澤敬二会長は、自身の兄が慶応義塾の中等部に入学したことをきっかけに軽い気持ちで慶応義塾の中等部に進学しようと考えます。
しかし、受験勉強をおろそかにして遊び放題、しかもご両親が西澤敬二さんの受験勉強にと家庭教師をつけてくれましたが慶応義塾の中等部には合格できませんでした。
そのため中学校名までは不明ですが、西澤敬二さんは兄とは別の私立中学に進学しています。
そんな勉強をおそろかにしていた少年が、ここからどのように損害保険ジャパンのトップになる道を進んでいったのか、見ていきましょう。
なんとなく、会社のトップになる人は幼少期から猛勉強しているイメージがあったから遊びまくっていたとは意外なエピソードだね。
出身高校は慶應義塾高等学校
兄とは別の私立中学校に進学した西澤敬二さんは、その後
慶應義塾高等学校に進学
住所:〒223-8524神奈川県横浜市港北区日吉4丁目1-2
電話番号:045-563-1111
中学受験では失敗してしまった慶応義塾に、再び挑戦し見事に合格しました。
実は、私立中学校に進んだ後はそれなりに楽しい学校生活を送っていた西澤敬二会長でしたが、中学2年生の秋に
”一心岩をも通す”ということわざが自分の中で浮かんできた
と語っています。
【”一心岩をも通す”とは?】
このことわざは、史記や韓詩外伝等にも登場
”不可能だと思えるような事柄でも、一途に一生懸命に取り組むと成功する”という意味
また、 ”愚かな者だったとしても、忍耐強く愚直に取り組むことでどんなことも成功する”という意味もある
この言葉は西澤敬二さんの祖母の「はる乃さん」から聞いた言葉でした。
この言葉で学業に対する姿勢を変化されたのは間違いないでしょう。
この言葉を心に秘め、高校受験の際には再度慶応を受験すると決めました。
目標を慶応と決めてからは、西澤敬二さんは勉強に精を出し見事に合格を勝ち取りました。
ちなみに、偏差値は76となっているので、かなり西澤敬二さんが努力したと伺えますよね。
西澤敬二さんは、高校で庭球部に所属していたので活発な面も持ち合わせる学生でした。
やる気さえ伴えば、なんでもできるってところが西澤敬二さんのすごいところだね。
この言葉と出会ったことは、きっと今の西澤敬二さんにも通ずるものがあるんだと思うよ。
出身大学は慶應義塾大学経済学部
慶應義塾高等学校を卒業した西澤敬二会長は、
慶應義塾大学経済学部に進学
住所:〒108-8345東京都港区三田2丁目15-45
電話番号:03-3453-4511
慶応義塾大学経済学部の偏差値は67.5です。
西澤敬二さんは、高校時代に引き続き大学でも庭球部に所属しています。
慶応義塾高校に受かったことをきっかけに、大学も慶応義塾を選んだようだね。
高校と大学は、努力は報われるということを体感した時代でもあったようね。かなり貴重な学生時代だと分かるね。
西澤敬二会長の経歴
【1980年/22歳】
安田火災海上保険入社
【2000年/42歳】
ドリームチケット制度を採用する
【2003年~/45歳~】
執行役員営業企画部長就任
【2015年~/57歳~】
持ち株会社の副社長執行役員と新規事業開発部長を兼務
【2022年/64歳】
損害保険ジャパン株式会社取締役会長に就任
【1980年/22歳】
安田火災海上保険入社
慶應義塾大学経済学部を卒業した西澤敬二会長は、1980年4月に安田火災海上保険(※現在の損保ジャパン)に入社します。
入社してしばらく研修した後は、名古屋市にある保険金サービス部に配属されました。
そこでは火災保険の保険金支払いを5年に渡って担当することとなります。
営業を担当していた西澤敬二会長は、基本的には代理店を通しての仕事が多かったので直接お客さんと関わることはあまり多くありませんでした。
しかし、保険金の支払いが生じた時には現場に査定にいく必要があります。
またそういった場合は、自分の住んでいる家が全焼してしまったり、家族が事故などでお亡くなりになった場合などの辛い状況で直接お話することが多いです。
西澤敬二会長がまだ入社してまもない23歳の頃、こんな場面に対峙することとなります。
夫が仕事で留守中に、夫以外の家族全員が火災で命を亡くす
このような厳しい状況の中で、唯一の生存者の夫にどんな声をかけたらよいのか西澤敬二会長はかなり戸惑ったようです。
言葉は少ないながらも、保険金額を超える査定結果を提示をしたところ、その方は
”自分の家族を一気に失ってしまった辛さは一生消えません。
でも、このお金(保険金)で新しい生活の一歩が踏み出せる。本当に感謝します。”
このように泣きながら言っていました。
こんな人生の一番辛い瞬間に立ち会うなんて、すごい仕事をしてきたんだね…
少しでもその人の人生の力になれることができたのは、かなり大きかったのではないかな?
【2000年/42歳】
ドリームチケット制度を採用
その後、西澤敬二さんは2000年7月に人事課長に就任します。
人事課長になっても、学生の頃の”一心岩をも通す”ということわざは大切にしていて「仕事を頑張ってきた人には報いる」と考え動いていました。
しかし、そんな頑張ってきた人材を本人の希望する部署へ異動させようとしても、移動先の部署に空きがない状況も多く、思い通りにいかないことも多々ありました。
そこで、西澤敬二さんは
本人の希望した部署に空きがなかったとしても、、異動させるのはどうだろうか?
定員が超過してしまった分は、社員の人数も多い会社だし次の人事の時に解消できるだろう。
この案は、普通に考えるとかなりの無理があると思いますよね?
しかし、その当時の部長や担当役員や社長は、西澤敬二さんのこの考えに対して「面白そうじゃないか。やってみてはどうだ?」と背中を押してくれました。
こうして西澤敬二さんが発案し出来上がった制度名は『ドリームチケット』と言われていて、現在も続いています。
ドリームチケット制度は、実際にレインボーカラーのチケットを作って役員たちが異動希望を出した本人たちに渡しています。
この制度は、
頑張っている社員の皆が、将来に”夢”を持てるように
という西澤敬二さんの願いが込められています。
こんな大胆な制度を実現させるなんて、本当にすごいね。
社員たちも、こんな制度があるなら仕事へのモチベーションがアップするよね。
【2003年~/45歳~】
執行役員営業企画部長就任など
その後も西澤敬二会長は順調に会社で活躍し続けます。
2003年~2014年までの西澤敬二会長の経歴がこちら。
【2003年】
7月損害保険ジャパン富山支店に勤務
【2008年】
4月:(株)損害保険ジャパンの執行役員営業企画部長に就任
【2010年】
4月:(株)損害保険ジャパンの常務執行役員に就任
6月:(株)損害保険ジャパンの取締役常務執行役員に就任
【2012年】
6月:NKSJホールディングス株式会社の取締役執行役員に就任
【2013年】
4月:(株)損害保険ジャパンの取締役専務執行役員に就任
【2014年】
4月:(株)損害保険ジャパンの代表取締役専務執行役員に就任
9月:(株)損害保険ジャパンの代表取締役専務執行役員に就任
とっても順調に昇進しているよね。
【2015年/57歳】
持ち株会社の副社長執行役員と新規事業開発部長を兼務
その後の2015年の4月には、西澤敬二さんは持ち株会社と事業会社の副社長執行役員に就任し、その6か月後には持ち株会社の新規事業開発部長も兼務しています。
しかし、人口が少なくなっていることに伴って契約数は思ったように伸びず、また若い方たちが車を保有しないことが多くなります。
また、人間の想像を超えた大規模な自然災害が続き損保事業の成長が阻まれます。
そこで、他に何か代わりとなるような需要率の大きい新規事業を企画したいと思った西澤敬二さんは介護事業だと思いつきました。
これからますます高齢化する社会において、介護事業は人の役に立つのではないかと考えます。
しかし、西澤敬二さんのこの提案に社内の多くの人間が「難しいのではないか?」と難色を示すのですが、西澤敬二さんは押し切り、この事業を行います。
反対を押し切って進めたこの介護事業も、今では
このように、成功していきます。
また、介護事業に関わっている方たちの処遇もしっかりと考え、今では看護師の平均年収に並ぶほどです。
2015年~2017年までの西澤敬二さんの経歴のまとめがこちらです。
【2015年】
4月 (株)損害保険ジャパンの代表取締役副社長執行役員に就任
【2016年】
4月 (株)損害保険ジャパンの代表取締役社長社長執行役員に就任
10月 SOMPOホールディングス株式会社の取締役に就任
【2017年】
4月 (株)損害保険ジャパンの国内損害保険事業オーナー取締役に就任
【2022年/64歳】
損害保険ジャパン株式会社取締役会長に就任
こうして”一心岩をも通す”ということわざを大切にしてきた西澤敬二会長は、2022年には損害保険ジャパン株式会社取締役会長に就任することとなりました。
自分の考えや祖母に言われた言葉を胸に、自信をもって突き進んできた結果だよね。
従業員側のことも考えて処遇を変えていくというところも、西澤敬二会長の敏腕な感じが分かるよね。
西澤敬二会長の家族構成
西澤敬二会長の家族構成は祖父母を入れて6人家族です。
西澤敬二会長の家族構成は
6人家族
祖父・祖母・父親・母親・兄
ここからはご家族についても見ていきましょう。
西澤敬二会長の両親
西澤敬二会長のご両親は、
荒川沿いの北千住で町工場を経営
また西澤敬二会長の父親にはお兄さんがいたのですが戦死しています。
そのため、この町工場は次男である父親と母親が継ぎ、約30人くらいの従業員のいる規模で経営されていました。
この頃、ご両親はかなり多忙な日々に追われていました。
ご両親についての名前などの詳しい情報は公表されていませんが、町工場を夫婦で経営していたことからもご両親の仲は良かったのではないでしょうか?
町工場で共働き夫婦と聞くと、すごく忙しそうなイメージだね。
西澤敬二会長の祖父母
西澤敬二会長の祖父母は
長野県の農家出身
西澤敬二会長の祖父母は、若い頃に長野県にあった田畑を売却して上京しています。
そして、荒川沿いの北千住で染色工場を開いています。
その町工場を継いだのが西澤敬二会長のご両親でした。
西澤敬二会長の祖父は西澤敬二会長がまだ小さい事に亡くなっていますが、祖母は西澤敬二会長が高校2年生になる時まで存命していました。
祖母はご両親に変わって子育てをしてくれ、色々と世話してくれました。
小学校1~2年生の頃までは、祖母の布団に一緒に入って寝たというのですから、”おばあちゃんっ子”だったのでしょう。
おばあちゃんは、絵本などを読むかわりに西澤敬二会長に心構えを教えていました。
その中の1つが「一心岩をも通す」ということわざでした。
おばあちゃんは「いい?よく聞くのよ?何をするにしても、まず自分の目標を高く持って一度やろうと決めたなら諦めずに貫いていくんだよ。」と教えてくれたと言います。
小学校低学年の少年に対しては、かなり大人びた会話だったかもしれませんが、この言葉がのちの西澤敬二会長の人生を大きく変えていきました。
ご両親に変わって、こういった大切なことを教えてくれた祖母は、きっと西澤敬二会長にとってとても大切な存在だったに違いないよね。
まとめ
ここまで西澤敬二会長について学歴や経歴、家族についてまとめてきましたが、いかがでしたでしょうか?
簡単にまとめてみると
・1958年2月生まれの65歳(2023年時点)
・出身地は東京都足立区
・最終学歴は慶應義塾大学経済学部
・1980年の22歳で安田火災海上保険入社
・2022年の64歳で損害保険ジャパン株式会社取締役会長に就任
・家族は6人家族
・ご両親は町工場を経営
・祖父母は長野県出身で農家
・”一心岩をも通す”をいう西澤敬二会長の人生を大きく変えた言葉は祖母の言葉だった
となります。
祖母との夜、眠る前に交わした何気ない会話から、人生ががらりと変わった西澤敬二会長は、きっと今後もその言葉を胸に抱いて活躍されることでしょう。