金子勝彦(サッカー実況)の経歴や学歴とWikiプロフ!妻や子供など家族構成!

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2023年8月28日の報道で、サッカーの実況者で知られる金子勝彦さんの訃報が報じられました。

金子勝彦さんは日本のサッカー人気に息を吹き込んだ存在として、多くのサッカーファンに愛された方でしたね。

特に1968年から1988年にかけて「三菱ダイヤモンド・サッカー」の司会を務めたこともあり、その印象を強く持たれている方も多いのではないでしょうか。

まさに金子勝彦さんは、サッカーが浸透していなかった頃から日本のサッカーを盛り上げてきた功績者の1人といえるでしょう。

ですがもしかしたら、「名前を聞いたことはあるけど詳しくは知らない」といった方もいらっしゃるかもしれません。

そこでこの記事では、金子勝彦さんに関する

・金子勝彦のWikiプロフィール
・金子勝彦の学歴
・金子勝彦の中央大学法制部での経歴
・金子勝彦の家族構成

についてまとめていき、金子勝彦さんの功績をご紹介いたします。

目次

金子勝彦(サッカー実況)のWikiプロフィール

まず最初に、この記事で紹介する金子勝彦さんのプロフィールをまとめます。

引用:タウンニュース

金子勝彦さんのWikiプロフィール
名前:金子 勝彦(かねこ かつひこ)
・愛称:ネコさん
・生年月日:1934年8月30日
・没年月日:2023年6月20日(享年88歳)
・出身地:神奈川県横浜市

・職業:スポーツアナウンサー・コメンテーター

横浜県横浜市で生まれた金子勝彦さんは、大学卒業後にアナウンサーとして新日本放送(現在の毎日放送)に入社しました。

当時日本代表の選手だった加茂豊さんとは毎日放送で同期として知り合い、この出会いが金子勝彦さんが後にサッカー界へと進出する礎となります。

1964年に東京12チャンネルに移籍すると、その後は主にスポーツ中継を中心に担当するようになりました。

東京12チャンネルとは?
現在のテレビ東京
1981年に東京12チャンネルからテレビ東京へと商号変更

欧州や南米のサッカーを初めて日本に伝えた

金子勝彦さんは「三菱ダイヤモンド・サッカー」で司会を務めたことをキッカケに、サッカーファンを日本にもたらした第一人者といっても過言ではありません。

引用 : テレビ朝日

1974年には当時では異例のFIFAワールドカップ西ドイツ大会が放送され、決勝戦の西ドイツ対オランダ代表で金子勝彦さんは実況を担当しています。

世界最高峰の舞台での試合を臨場感溢れる実況で盛り上げ、テレビを介して現地の情熱をありのまま日本へと伝えてくれました。

ヨーロッパ以外でもブラジルを中心とした南米のサッカーの放送もおこなわれ、金子勝彦さんが実況を担当。

いぬ

キングカズの父親のコネでブラジルの放送が実現したんだって。

いつしか「サッカー=金子勝彦」のイメージが世間で定着するほどに、金子勝彦さんは世界中のサッカーを日本に伝えてきました。

その功績が讃えられ、2002年にはJリーグから特別功労賞が与えられると、2012年には放送界出身では初の日本サッカー殿堂入りを果たすほど。

まさに今の日本サッカー文化を根底から作った功績者といっても過言ではない活躍をしています。

金子勝彦の学歴

金子勝彦さんの最終学歴は大学卒業です。

引用 : 日本サッカー協会

まずは簡単にまとめます。

1950年/12歳】
私立横浜中学校卒業

【1953年/15歳】

私立横浜高等学校卒業

【1957年/22歳】

私立中央大学法学部卒業

次からはそれぞれの学校と当時の金子勝彦さんのエピソードなどを交えながら、深掘りして紹介していきます。

出身中学と高校は横浜中学校・高等学校

横浜県横浜市で生まれた金子勝彦さんは、私立の中学校に進学しました。

中学3年間を過ごした中学校は私立横浜中学校。

この中学校は中高一貫校だったため、金子勝彦さんは中学卒業後そのまま内部進学をしており、私立横浜高等学校に進んでいます。

下記、それぞれの学校の情報になります。

引用:スクルポ

私立横浜中学校
所在地:横浜市金沢区能見台通46-1
偏差値:39~41


私立横浜高等学校
所在地:横浜市金沢区能見台通46-1
偏差値:40~53

横浜中学校・高等学校は硬式野球部が非常に強い高校として有名であり、これまでに数多くのプロ野球選手を輩出しています。

MLBでも活躍された松阪大輔さん、現在ソフトバンクホークスでプレーしている近藤健介さんなどの出身校としてご存知の方も多いのではないでしょうか。

金子勝彦さんは高校時代、ヨットとテニスに夢中だったと語っており、サッカーとは無縁の生活を送っていたと、過去のインタビューで明かしています。

くま

その後サッカーの実況者になるんだから、縁って不思議…

また、当時から金子勝彦さんは漢文や古文などの授業を好んでおり、古い教科書や物語から正しい日本語や国語力などを身に付けていました。

うま

間違いなく文系だったはず…

金子勝彦さんの心地のいい綺麗な発音や、分かりやすい言語能力も高校時代に培われていたんですね。

出身大学は中央大学法学部

横浜高等学校を卒業後は、東京都八王子に所在する中央大学の法学部へと進学しました。

引用:アクシブアカデミー

中央大学(法学部)
所在地:東京都八王子市東中野742-1
偏差値:57〜65

中央大学法学部の偏差値と横浜高等学校の偏差値とでは、少し差があるので金子勝彦さんは高校時代からかなり高い学力だったのでしょうね。

勉学に励んでいた金子勝彦さんですが、在学中に偶然アナウンサー募集を目にします。

その募集に導かれるように、試験を受けた金子勝彦さんは大阪に拠点を構える新日本放送に内定が決定。

くま

新日本放送は今の毎日放送だよ

大学卒業と同時に慣れ親しんだ関東を離れ、単身大阪へと活動拠点を移しました。

金子勝彦の中央大学卒業後の経歴

中央大学法学部を卒業し、アナウンサーとなった金子勝彦さんの経歴をまとめていきます。

引用:ぐるなび

1957年/23歳】
大学卒業と同時に新日本放送(現在の毎日放送)に入社

1964年/30歳】
大阪から横浜へ戻り、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に移籍

1968年/34歳】
三菱ダイヤモンド・サッカーの放送がスタート

【1974年/40歳】

西ドイツW杯決勝戦の西ドイツ対オランダ戦で実況を担当

2006年/72歳】
ドイツW杯の決勝戦、イタリア対フランスの実況を担当

次からは順に詳しく解説していきます。

1957年/23歳
大学卒業と同時に新日本放送に入社

金子勝彦さんは中央大学法学部卒業後、新日本放送(現在の毎日放送)に入社いたしました。

新卒でアナウンサーとなり、新日本放送に入社した金子勝彦さんですが、当初はサッカー中継は一切担当していませんでした。

その代わりに野球中継などで抜擢されており、日本シリーズなどの注目度が高い試合も担当しています。

新人アナウンサーながら現場での評価は高く、野球中継で実況者としての腕を磨いたといえるでしょう。

1968年/34歳】
三菱ダイヤモンドサッカーの司会

金子勝彦さんは当番組で、後に日本サッカー協会会長にまで上り詰める岡野俊一郎さんとタッグを組んで司会を担当されました。

引用 : テレビ朝日

金子勝彦さんといえば、1968年から1988年まで放送されたサッカー番組、「三菱ダイヤモンド・サッカー」の印象が強いですよね。

当時はJリーグも始まっておらず、サッカー人気が最も低迷したとも言われる時代でした。

いぬ

昔はサッカーが全く人気なかったんだよね

野球人気がダントツだった日本ではサッカー番組もなく、ネットも今ほど普及していなかったため海外サッカーの情報を入手するのは至難の業。

そんな時代で「三菱ダイヤモンド・サッカー」は毎週土曜日の18時から30分間放送され、欧州の1部リーグやW杯予選の結果などを報道。

奥寺康彦さんがドイツのチームへと移籍を果たして以降は、現地での奥寺康彦さんの活躍を積極的に報道するようにもなりました。

くま

海外で活躍する日本人はいつの時代も気になるよね

「三菱ダイヤモンド・サッカー」で世界のサッカーや奥寺康彦さんの活躍を知り、サッカーに興味を持った方も非常に多いと聞きます。

まさに後のJリーグで活躍した選手たちに影響を与えただけではなく、日本にサッカー文化を根付かせる意味でも多大な貢献を果たしたテレビ番組と言えるでしょう。

当時は貴重なサッカー番組としてだけではなく、番組の冒頭で金子勝彦さんが必ず口にしていた

サッカーを愛するみなさん、ご機嫌如何でしょうか?

の挨拶も回を重ねるごとに、いつしか金子勝彦さんの代名詞にもなりましたね。

この挨拶は非常に評判が良く、番組終了後も金子勝彦さんが実況を担当する試合では必ず使われるようにもなりました。

後にコメンテーターとして復帰?
番組終了から5年が経過した1993年、Jリーグ開幕を機に番組が復活
金子勝彦さんも司会ではなくコメンテーターとして、番組に復帰

1964年/30歳】
大阪から横浜へ戻り東京12チャンネルに移籍

金子勝彦さんは、義父の交通事故により新日本放送を退社し、横浜に戻りました。

当初は司法試験を受験するためにアナウンサーを辞めるつもりでしたが、東京12チャンネルからのオファーや実父の説得もあって移籍を決意。

1964年に東京12チャンネルが開局したと同時に入社し、その後は主にスポーツ中継を中心に担当を任されるようになりました。

1968年/38歳】
三菱ダイヤモンド・サッカーの放送スタート

金子勝彦さんの代名詞ともいえる、三菱ダイヤモンド・サッカーの放送が開始しました。

当番組で司会を務めたのを機に、その後本格的にサッカー関連の仕事が増え始めていくこととなります。

三菱ダイヤモンド・サッカーは、サッカーの本場であるイギリスのサッカー番組「マッチ・オブ・ザ・デイ」をもとに作られた番組です。

イギリスのサッカー文化に感銘を受けた社員が、

野球だけではなく、世界的に有名なサッカーも日本に取り入れなければならない

と進言したことから、番組制作が始まりました。

放送開始から放送終了の1988年まで、貴重な海外サッカーの情報を発信する番組として、数多くのサッカー少年少女、そしてサッカーファンを生み出す番組となりました。

うま

まさにその想いどおりになったんだね。

【1974年/40歳
西ドイツW杯決勝戦西ドイツ対オランダ戦の実況を担当

三菱ダイヤモンド・サッカーの放送を皮切りに徐々にサッカーが日本にも浸透し始めた頃、1974年の西ドイツ大会決勝戦が日本でも衛生放送されました。

日本が出場していないW杯の試合を放送するのは当時ではかなり斬新なアイディアで、今でも日本サッカー史では伝説と称されるほど珍しいことでした。

世界一を決める試合の実況を金子勝彦さんが担当し、普段サッカーを見ない視聴者にもその魅力を存分に伝えることに成功。

この放送を境に、更に日本でのサッカー熱が高まることとなりました。

2006年/72歳】
ドイツW杯の決勝戦でイタリア対フランスの実況を担当

西ドイツW杯決勝の実況を担当した年から32年が経過した2006年、再び金子勝彦さんがW杯決勝の実況を担当しました。

それも1974年と同じ、ドイツで開催された大会だったこともあって、昭和のサッカーファンには様々な意味で印象深い決勝戦となったのではないでしょうか。

くま

32年ぶりで同じドイツ大会決勝ていうのも、運命的な何かを感じるよね。

金子勝彦さんは決勝の舞台であるベルリンまで実際に飛んで、放送席から試合を観戦。

かつてW杯の素晴らしさを日本のサッカーファンに伝えたのと同じように、丁寧かつ情熱的な実況で現地の興奮を日本のサッカーファンへ届けてくれました。

金子勝彦の家族構成

家族構成に関する詳細は、残念ながら殆ど明かされていませんでした。

引用 : 日本サッカー協会

プライベートについてはあまり明かされていない金子勝彦さんですが、ご結婚されており、子供もいらっしゃる事はわかっています。

早速詳細をみていきます。

妻や子供は?

金子勝彦さんは1963年時点ですでに結婚していることが判明しており、家族は、妻・子供・孫を合わせ14名です。

:横浜近辺出身?
子供:人数不明
:人数不明

当時は29歳なので、中央大学を卒業してアナウンサーになり、ある程度仕事に慣れたタイミングで結婚されたのでしょうか。

後述しますが、妻が横浜在住だったとの情報もあるため、もしかしたら大学や高校時代から交友があった方の可能性も十分考えられますよね。

子供や孫の詳細な人数は明かされていませんが、孫を合わせて家族は計14人いると明かしています。

金子勝彦さんは1963年に義弟を交通事故で亡くしており、その影響で大阪から横浜へと戻りました。

家族を失った悲しみで傷心する妻の親族たちの様子を見て横浜に戻ったとのことなので、妻の実家は横浜もしくは横浜付近だったことがわかります。

義父は裁判官をしていたので、金子勝彦さんの妻はもしかしたらかなり優秀な方なのかもしれませんね。

子供に関しては何人いるなどの情報はありませんが、孫を合わせて家族は計14人いると明かしていますので、14人が集まった際は、皆で鍋を囲んで賑やかな時間を楽しんでいたことも話されていました。

まとめ

・金子勝彦(享年88歳)は神奈川県横浜市出身のスポーツコメンテーター
・中高一貫の横浜中学・高校を経て中央大学を卒業
・海外のサッカー事情を日本に広め、日本にサッカーファンを増やす為、大きく貢献
・結婚しているものの、家族の詳細は不明(孫を含め14人家族)

この記事では、金子勝彦さんに関する情報をまとめていきましたが、いかがでしたでしょうか?

引用 : Yahooニュース

まさに日本にサッカー文化が浸透するキッカケとなった働きを何度もしてこられた金子勝彦さん。

金子勝彦さんの活躍もあって、現在では日本代表がW杯出場の常連国になり、国内でも野球に引けを取らない人気を集めるスポーツとなりました。

日本サッカーの功績者と言っても過言ではない存在だけに、今回の訃報に胸を痛めた方も多いはず。

金子勝彦さんには日本代表がW杯で優勝する光景を見て欲しかった、というのが個人的な想いです。

今後は天国から金子勝彦さんが根付かせたサッカー文化が更に発展し、盛り上がる様子を見守ってほしいですよね。

金子勝彦さんのご冥福をお祈りすると共に、功績を称えたいと思います。

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